夢二オンラインミュージアム
略歴
明治17年~昭和9年(1884~1934)
明治17年、岡山県の南東、邑久郡本庄村(現、瀬戸内市)に生まれる。本名は竹久茂次郎。父・菊蔵は造り酒屋を営む。子供の頃より絵を描くことを好む。神戸中学に進み、異文化に魅かれる。しかし、実家の都合で中退、一家で福岡に転居。18歳の夏に、家出して上京。早稲田実業学校に入学。キリスト教者や幸徳秋水ら社会主義者と交わる。22歳の時に「中学世界」に投稿した「筒井筒」が一等入選。初めて「夢二」と署名する。画業に専念するため早稲田実業学校を中退。投稿を続けながらも、翌年には早稲田鶴巻町で絵ハガキ店を開いた未亡人、岸たまきと出会い、結ばれる。彼女をモデルとした「夢二式美人画」を描き、人気作家の仲間入りを果たす。2年後に離婚。31歳の時にたまきと子供達の生活費のために、日本橋に「港屋」を開店。笠井彦乃と出会い、後に結ばれるも、彦乃は6年後に病死。38歳の時にモデルとして現れた、お葉と所帯を持ち、時代を代表する画家として活躍。しかし、昭和にはいると人気にも翳りがみえはじめ、心機一転、昭和6年に渡米。夢にまでみたアメリカでの滞在は世界恐慌のあおりで苦難続き。ヨーロッパに渡るも、世情は安定しておらず、更なる苦難続きで、昭和8年に失意と病を得ての帰国。昭和9年、長野県の富士見高原療養所で「ありがとう」を最後の言葉に51歳で永眠。
※年齢は数え年です。
- 1884年(明治17)
- 1歳 - 9月16日:岡山県邑久郡本庄村に生まれる。
本名は茂次郎。家業は造り酒屋。 - 1899年(明治32)
- 16歳 - 4月:神戸中学校に入学。
12月:家事都合により中退。帰郷。 - 1900年(明治33)
- 17歳 - 2月:一家で郷里を離れ福岡へ転居。
- 1901年(明治34)
- 18歳 - 夏:家出して上京。苦学。
- 1902年(明治35)
- 19歳 - 9月:早稲田実業学校、入学。
- 1905年(明治38)
- 22歳 - 3月:早稲田実業学校、卒業。
4月:同校専攻科に進む。
5月:「中学世界」にコマ絵「筒井筒」が一等入選し、初めて「夢二」と署名する。
7月:早稲田実業専攻科を中退。 - 1907年(明治40)
- 24歳 - 1月:岸たまきと結婚。
4月:読売新聞入社。時事スケッチを掲載する。 - 1908年(明治41)
- 25歳 - 2月:長男、虹之助生まれる。
- 1909年(明治42)
- 26歳 - 5月:岸たまきと戸籍上離婚。
12月:最初の著作「夢二画集 春の巻」刊行。
以後、数多くの出版物を刊行する。 - 1911年(明治44)
- 28歳 - 5月:次男、不二彦生まれる。
- 1912年(大正1)
- 29歳 - 11月:京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」開催。多くの来場者で話題となる。
- 1914年(大正3)
- 31歳 - 10月:日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」「港屋絵草紙店」開店。笠井彦乃と出会い、後に結ばれる。
- 1916年(大正5)
- 33歳 - 4月:初めて「セノオ楽譜」「セノオ楽譜」を装幀する。
以後270余のセノオ楽譜の装幀を手掛ける。 - 1917年(大正6)
- 34歳 - 2月:京都清水二年坂
京都清水二年坂に不二彦と転居。
夏:彦乃、不二彦と共に金沢市湯涌温泉に旅行。 - 1918年(大正7)
- 35歳 - 4月:京都府立図書館にて「第二回竹久夢二抒情画展覧会」開催。
9月:「宵待草」が出版され、全国に流布。
11月:東京に戻る。 - 1919年(大正8)
- 36歳 - 「山へよする」「露地の細道」「夢のふるさと」「たそやあんど」など木版挿画本木版挿画本を多数出版。
- 1920年(大正9)
- 37歳 - 1月:彦乃、御茶ノ水順天堂医院にて永眠。(享年 25歳)
- 1921年(大正10)
- 38歳 - 7月:モデルのお葉と渋谷に所帯を持つ。
- 1923年(大正12)
- 40歳 - 9月:関東大震災。これにより恩地孝四郎らと共に企画した「どんたく図案社」は頓挫。
「都新聞」に「東京災難画信」「東京災難画信」の連載を始める。
12月:子供向けの絵本子供向けの絵本「どんたく絵本」刊行。 - 1924年(大正13)
- 41歳 - 5月:「婦人グラフ」「婦人グラフ」に表紙や口絵の掲載を始める。
夢二の人気にあやかり、飛ぶように売れた。
12月:松沢村(現、世田谷区)にアトリエ付新居「少年山荘」完成。お葉と共に転居。 - 1925年(大正14)
- 42歳 - 5月:装幀をした縁で山田順子が現れ、お葉去る。
- 1930年(昭和5)
- 47歳 - 5月:「榛名山美術研究所建設につき」宣言文を夢二が書き、島崎藤村他が賛助の名を連ねる。
7月:「中山晋平 作曲全集」「中山晋平 作曲全集」刊行。 - 1931年(昭和6)
- 48歳 - 3月:新宿三越にて渡米告別展渡米告別展を開催。
5月:横浜港よりホノルル経由でアメリカへ向かう。
6月:サンフランシスコ、着。
各地で展示会を開くも売れず。 - 1932年(昭和7)
- 49歳 - 9月:アメリカより渡欧。
10月:ハンブルク、 着。
欧州各地を転々とする。 - 1933年(昭和8)
- 50歳 - 9月:神戸に帰港。
11月:台湾に行くが体調を悪化させ帰国。 - 1934年(昭和9)
- 51歳 - 1月:信州富土見高原療養所に入院。
9月1日:「ありがとう」を最後の言葉に永眠。雑司ヶ谷墓地に埋葬。
上京当時の夢二
(明治34年頃)
デビューした頃の夢二
(明治43年頃)
夢二、たまきと次男不二彦
(大正元年頃)
港屋前の
たまき(右)と彦乃(左)
(大正3年頃)
展覧会場での夢二(後列右から2人目)と彦乃(前列1番右)
(大正7年頃)
お葉と不二彦
(大正10年頃)
棒名湖畔にて
(昭和6年頃)
資料
平台ケースや覗きケースで展示していただける資料。多数、御座居ます。
「月刊夢二エハガキ」
明治44年~大正9年
(石版画 他)
「若草」
大正14年~昭和6年
(石版画 他)
「大大阪」
大正15年(木版画)
婦人グラフ
「婦人絵暦十二ヶ月」
大正13年(木版画)
「セノオ新小唄」
大正5年~9年(木版画)
「装幀本」
大正4年~6年(木版画)
「子供向け雑誌」
明治末~昭和初期
(石版画 他)
「夢二畫手本」
大正12年(オフセット)
夢二が使用していたのと同型の
カメラ「べス単」
署名入り自著本
「露地の細道・改版」
「手紙」
明治末~昭和初期
「短歌」
明治末~昭和初期
晩年の夢二
昭和になって…
華やかだった大正時代も終わりに近づき、昭和に入る頃になると、世界恐慌や国際紛争による国威発揚等、世情が厳しいものとなってくる。夢二の絵は軟弱とされ、又夢二自身の女性スキャンダル等もあり、夢二の人気は下降線を辿ることとなる。 夢二は大正末頃には再生の願いを込めて画号を「夢生」と改め、長年の夢であった欧米への旅に出ることを決意する。
昭和6年5月7日、準備も整い念願のアメリカヘ向けて出航。しかし、夢にまでみたアメリカでの滞在は世界恐慌の波を被って思うように絵も売れず、失望と苦難の連続であった。
昭和7年9月10日、アメリカに見切りをつけた夢二はヨーロッパへ旅立つ。しかし、ヨーロッパはさらに世情が安定しておらず(昭和8年にはヒトラーによるナチス政権が樹立)、更なる苦難を味わうこととなる。
昭和8年9月18日、失意の上に病まで得て夢二は神戸港に辿りつく。
昭和9年9月1日、信州の富士見高原療養所で「ありがとう」を最後の言葉に永眠(満49歳、数え年51歳)。
旅と人と仕事を愛した一生であった。
「晩年の夢二」
写真パネル
外寸:103×73cm
昭和8年9月18日、失意の上に病まで得て夢二は神戸港に辿りつく。
昭和9年9月1日、信州の富士見高原療養所で「ありがとう」を最後の言葉に永眠(満49歳、数え年51歳)。
旅と人と仕事を愛した一生であった。
「晩年の夢二」
昭和6年(写真パネル)
「三越展覧会ポスター」
木版画
「三越展覧会ポスター」
昭和6年(木版画)
83×65cm
「米国旅行滞在地」
資料
30×40cm
「欧州旅行全行程」
資料
30×40cm
「橋」
昭和6年頃(スケッチ)
56×47cm
「赤い服の女」
復刻木版画
63×48cm
「青い目の娘」
復刻木版画
63×48cm
「見舞い」
昭和初期(ペン画)
41×50cm
「榛名湖畔にて」
写真パネル
45×34cm
「棒名山」
大正後期(絹本・墨)
57×69cm
夢二と写真
大正時代に輸入品のカメラは、庶民には高嶺の花だった。夢二は当時、世界的に人気のあったベスト・ポケット・コダック(通称"ベス単")というアメリカ製の小型カメラを愛用し、実に2614枚の写真を11冊のアルバムに遺している。夢二が撮影した写真は、スナップ的な行動記録としてのものと、自らが描く絵画用の構図サンプルとして撮られているものとに大別される。不二彦(次男)を撮ったものはスナップ的なものが多く、女性(特にお葉)を撮ったものはまさに夢二の絵の構図そのものである事が多い。他には心象風景の様な風景(静物)の写真が印象的である。
※これらの写真パネルは、孫である竹久みなみ氏の協力を得て、夢二の遺した写真アルバムの中の写真より製作したものです。
「べスタンをかまえる夢二」
写真パネル
外寸:45×34cm
「べスタンをかまえる夢二」
写真パネル
「たまき」
写真パネル
「たまき」
写真パネル
53×42cm
「彦乃」
写真パネル
53×42cm
「お葉」
写真パネル
53×42cm
「三味線をひくたまき」
写真パネル
42×53cm
「湯涌温泉の夢二と彦乃」
写真パネル
103×73cm
「読書するお葉」
写真パネル
55×65cm
「船」
写真パネル
53×42cm
「どくだみ」
写真パネル
42×53cm
「花火」
写真パネル
53×42cm
東京災難畫信
大正12年(1923年)9月1日関東は、未曽有の地震に見舞われました。日本災害史上最大級の被害をもたらした「関東大震災」です。
死者行方不明者10万5千人、住宅の全半壊は、25万軒を遥かに超えたといいます。浅草十二階が倒れ、堅牢な帝国劇場、三越日本橋店や多くの官庁の建物なども被害に遭いました。お昼時だったことから各地で火災が発生し、折からの強い風にあおられて45万軒近い家屋が焼失しています。下町の被害が特に酷く、本所の被服廠跡の火事による被害は甚大でした。たった一箇所で3万8千人とも、4万4千人ともいわれる焼死者を出したのです。
夢二は渋谷区宇田川町に住んでいたので、家は無事でしたが、恩地孝四郎たちと始めようとしていた「どんたく図案社」は壊滅してしまいました。
それでも友人の有島生馬と東京の町をスケッチして歩き、「都新聞」(現・東京新聞の前身)に連載しました。それが、「東京災難畫信」です。夢二は災害の中で浮かび上がる様々な人間模様を写し取りました。
震災の翌日訪れた「被服廠跡」の惨状には深い哀悼の気持ちを示しています。生きるために煙草を売る娘を見ては、それを売り尽くした後の彼女の身の上を憂え、憔悴しきった人々の呆然とした姿を様々な場面に描き続けました。外国人が暴徒化したというデマに踊らされ、自警団を作って警戒をする大人、子供達がそれをまねて、「自警団遊び」をすることには鋭いコメントをつけています。
若いころから社会主義に共感し、弱いものに寄り添って絵を描いてきた夢二のスケッチには、被災者への深い同情と災害に対する警告が込められています。
美人画とは違った夢二の一面を見ていただきたいと思います。
竹久みなみ
「十二.仲秋名月」
新聞復写
外寸:37×45cm
震災の翌日訪れた「被服廠跡」の惨状には深い哀悼の気持ちを示しています。生きるために煙草を売る娘を見ては、それを売り尽くした後の彼女の身の上を憂え、憔悴しきった人々の呆然とした姿を様々な場面に描き続けました。外国人が暴徒化したというデマに踊らされ、自警団を作って警戒をする大人、子供達がそれをまねて、「自警団遊び」をすることには鋭いコメントをつけています。
若いころから社会主義に共感し、弱いものに寄り添って絵を描いてきた夢二のスケッチには、被災者への深い同情と災害に対する警告が込められています。
美人画とは違った夢二の一面を見ていただきたいと思います。
竹久みなみ
「十二.仲秋名月」
新聞復写
「一」
新聞復写
「一」
新聞復写
37×45cm
「四.煙草を売る娘」
新聞復写
37×45cm
「六.自警団遊び」
新聞復写
37×45cm
「七.被服廠跡」
新聞復写
37×45cm
「十四.見まじきもの」
新聞復写
37×45cm
「十五.ポスター」
新聞復写
37×45cm
「十七.子夜呉歌」
新聞復写
37×45cm
「二十一.バビロンの昔」
新聞復写
37×45cm
「関東大震災実況絵葉書」
大正12年(参考資料)
51×60cm
童画
竹久夢二といえば「美人画」が有名だが、彼が数多くの可愛らしい「童画」も描いていたことはあまり知られていない。自身3人の男の子の父であった夢二は、その活動の最も初期の頃から「日本少年」や「少学少女」、「子供之友」や「コドモノクニ」といった子供雑誌の表紙絵や挿絵を数多く描いている。又、子供達のために古いわらべ歌を集めた本(歌時計)を出したり、絵の練習帳(夢二画手本)等も出販している。さらに彼は自ら童謡や童話も数多く作っているのである。
夢二の描く「童画」は、彼自身の子供の頃を思いながら描いた作品も多く郷愁にあふれている。 又、純粋で弱い存在である子供たちに対する彼のまなざしはあくまでも優しく「美人画」とはまた異なった夢二の魅力を我々に示してくれる作品群となっている。
「カリフの鸛」
昭和3年頃(ペン画)
外寸:48×39cm
「カリフの鸛」
昭和3年頃(ペン画)
「花のたよりの文つかひ」
大正2年(オフセット)
「花のたよりの文つかひ」
大正2年(オフセット)
45×37cm
「ノンキナトウサン」
大正14年(オフセット)
45×37cm
「まりつき」
大正14年(オフセット)
45×37cm
「小春日」
大正元年(オフセット)
45×37cm
「ねむの木・口絵」
大正5年(石版画)
45×37cm
「新作児童唱歌Ⅰ」
昭和2年(オフセット)
42×53cm
「家族双六」
大正5年(オフセット)
72×58cm
「パラダイス双六」
明治45年(オフセット)
93×73cm
「お伽の国めぐり」
昭和元年(オフセット)
98×73cm
肉筆(ペン画)
日本画、水彩画、油彩画、パステル、墨絵とさまざまな手法で絵を描いた夢二だが、最も数多く描いたのは、挿絵で頻繁に描いたペン画であろう。
そもそもコマ絵(挿絵)でデビューした夢二は、自身や他作家の単行本や雑誌に、数多くのペン画による挿絵を描いており、そこから数多くのファンを得ていった。
初期のペン画は、情感に富んだベタなタッチのものも有ったが、「 どんたく」(大正2年)の頃からはエッチング(銅版画)風の細い線描となり、その細部にまで神経の行き届いた軽やかなタッチが人気となっていったのである。
「夢二の絵はペン画を見ずして論ずることは出来ない」と、大コレクターでもあった故・河村幸次郎氏も記されている。
※現在紹介中の作品は、全て自著の絵入小唄集「どんたく」(大正2年)の挿絵として描かれた作品です。
「あ め」
大正2年(ペン画)
外寸:43×35cm
「あ め」
大正2年(ペン画)
「紅茸の母子」
ペン画
「紅茸の母子」
ペン画
43×35cm
「夏のたそかれ」
ペン画
43×35cm
「鳥帰る」
ペンシル画
43×35cm
「納戸の記臆」
ペン画
43×35cm
「越後獅子」
ペン画
43×35cm
「江戸見物」
ペン画
43×35cm
肉筆
コマ絵(文章にはさむ絵)の投稿から出発した夢二は、その絵のほとんどが出版物を通して全国に知られる様になっていった。しかし有名にはなっても一般に肉筆の作品を発表する機会は限られていたので、夢二は日本人の画家としては初めて「個展」という型での作 品展を大正元年に京都で開く。出版物を通して人気を 集めていた夢二の作品展は、同じ時期に京都で開かれた「文展」に劣らぬ人気を集めたといわれている。夢二の肉筆といえばやはり「美人画」が最も有名である。大きくつぶらな瞳、夢みがちに愁いをふくんだ表情、流れるようなたおやかな姿態の女性。夢二は独学でデッサンを重ね、海外からの資料を参考にし、研鑽に研鑽を積んだ末に独特の美人画を描くことに成功したのである。又、「美人画」で有名な夢二ではあるが花や風景画も多く残している。特に晩年は山の絵を多く描いている。
「柿落葉」
大正中期(絹本彩色)
外寸:180×47cm(軸)
日光夢二美術館:蔵
「柿落葉」
大正中期(絹本彩色)
「町女図(港や)」
大正中期(絹本彩色)
「町女図(港や)」
大正中期(絹本彩色)
120×45cm(軸)
日光夢二美術館:蔵
「春の雪」
昭和初期(紙本彩色)
180×50cm(軸)
日光夢二美術館:蔵
「嵐峡晩秋」
大正中期(絹本彩色)
180×50cm(軸)
日光夢二美術館:蔵
「青いかんざし」
大正中期(紙本彩色)
180×47cm(軸)
「唐人お吉」
昭和初期(紙本彩色)
180×47cm(軸)
「結 髪」
大正中期(紙本彩色)
180×50cm(軸)
「春乃海」
大正中期(絹本彩色)
158×63cm(額)
「稚き日の記憶」
大正中期(絹本彩色)
150×60cm(額)
日光夢二美術館:蔵
「柳津風景」
昭和初期(紙本彩色)
150×54cm(額)
中山晋平 作曲全集
中山晋平(明治20年~昭和27年)は、「カチューシャの唄」「シャボン玉」「東京行進曲」など当時の流行歌から童謡まで幅広い活躍をした作曲家である。
夢二とは明治の末、自然主義運動の理論家であった島村抱月の書生をしていた頃に知り合い親交を深めていった。中山晋平が残した曲は3,000曲ともいわれているが、夢二はその代表的な名曲の数々の装幀画を晋平の依頼を受けて制作している。中でも昭和5年に出版された「中山晋平作曲全集」は晋平が自ら選んだ名曲27曲全ての装幀を夢二が手がけ、木版摺りの300部限定発行という豪華版であった。人気作家2名による「コラボ」の集大成ともいえる作品集となったのである。
「目次」
昭和5年(木版画)
外寸:45×57cm
「目次」
昭和5年(木版画)
「青い芒」
木版画
「青い芒」
木版画
45×57cm
「東京行進曲」
木版画
45×57cm
「マノン・レスコウの唄」
木版画
45×57cm
「港踊」
木版画
45×57cm
「紅屋の娘」
木版画
45×57cm
「愛して頂戴」
木版画
45×57cm
「望月小唄」
木版画
45×57cm
「鴨川小唄」
木版画
45×57cm
「毬と殿さま」
木版画
45×57cm
セノオ楽譜
夢二のグラフィックデザイナーとしての才能を示す特筆すべき仕事として「セノオ楽譜」の装画がある。
「セノオ楽譜」は、妹尾幸陽が日本や外国の数々の名歌と名曲を紹介するために出版していた楽譜集で総数は千曲以上にも及んでいる。
その内、夢二は270余点の表紙絵を手がけており、グラフィックデザイナーとしての、才気あふれる手法と、多彩な意匠が駆使されている。題名のレタリングもそれぞれ感覚的で創意工夫に満ちており、当時の人々は表紙の斬新でモダンな感覚のデザインに魅了され多くの夢ニファンを生むこととなった。
また夢二自身の作詩によるものが24曲含まれており、なかでも有名なのが大正7年に発表された「待宵草」(宵待草)である。
※「書簡」
今夜「宵待草」をおどるので柴田秀子のレコードをお借りしたく御都合ください
四月二十日 竹久夢生 セノオ様
「今宵、宵待草を…」
昭和初期(書簡)
外寸:46×55cm
※「書簡」
今夜「宵待草」をおどるので柴田秀子のレコードをお借りしたく御都合ください
四月二十日 竹久夢生 セノオ様
「今宵、宵待草を…」
昭和初期(書簡)
「下りてくれるな」
大正13年(水彩画)
「下りてくれるな」
大正13年(水彩画)
55×47cm
「ホームソング」
大正15年(水彩画)
55×47cm
「待宵草」(宵待草)
大正7年(石版画)
75×57cm
「椿姫」
大正6年(石版画)
53×42cm
「蘭燈」
大正6年(石版画)
53×42cm
「松原」
大正13年(石版画)
53×42cm
「金乃鳥」
大正13年(石版画)
53×42cm
「草の中にて唱へる」
大正13年(石版画)
53×42cm
「海辺にて」
大正13年(石版画)
53×42cm