夢二オンラインミュージアム
晩年の夢二
昭和になって…
華やかだった大正時代も終わりに近づき、昭和に入る頃になると、世界恐慌や国際紛争による国威発揚等、世情が厳しいものとなってくる。夢二の絵は軟弱とされ、又夢二自身の女性スキャンダル等もあり、夢二の人気は下降線を辿ることとなる。 夢二は大正末頃には再生の願いを込めて画号を「夢生」と改め、長年の夢であった欧米への旅に出ることを決意する。
昭和6年5月7日、準備も整い念願のアメリカヘ向けて出航。しかし、夢にまでみたアメリカでの滞在は世界恐慌の波を被って思うように絵も売れず、失望と苦難の連続であった。
昭和7年9月10日、アメリカに見切りをつけた夢二はヨーロッパへ旅立つ。しかし、ヨーロッパはさらに世情が安定しておらず(昭和8年にはヒトラーによるナチス政権が樹立)、更なる苦難を味わうこととなる。
昭和8年9月18日、失意の上に病まで得て夢二は神戸港に辿りつく。
昭和9年9月1日、信州の富士見高原療養所で「ありがとう」を最後の言葉に永眠(満49歳、数え年51歳)。
旅と人と仕事を愛した一生であった。
「晩年の夢二」
写真パネル
外寸:103×73cm
昭和8年9月18日、失意の上に病まで得て夢二は神戸港に辿りつく。
昭和9年9月1日、信州の富士見高原療養所で「ありがとう」を最後の言葉に永眠(満49歳、数え年51歳)。
旅と人と仕事を愛した一生であった。
「晩年の夢二」
昭和6年(写真パネル)
「三越展覧会ポスター」
木版画
「三越展覧会ポスター」
昭和6年(木版画)
83×65cm
「米国旅行滞在地」
資料
30×40cm
「欧州旅行全行程」
資料
30×40cm
「橋」
昭和6年頃(スケッチ)
56×47cm
「赤い服の女」
復刻木版画
63×48cm
「青い目の娘」
復刻木版画
63×48cm
「見舞い」
昭和初期(ペン画)
41×50cm
「榛名湖畔にて」
写真パネル
45×34cm
「棒名山」
大正後期(絹本・墨)
57×69cm